ライセンス制度が整い、コーチの指導技術はアップした。そして、専門用語が飛び交う指導によって、選手たちの平均的競技レベルは飛躍的に向上したように見える。
そう、これはサッカー界の話だ。
昭和のサッカー環境を過ごしたコーチの指導は変化し、身振り手振りを交え指導するその姿に、昭和の面影はどこにも見あたらない。それゆえサッカー界におけるコーチたちの指導技術は、着実に進歩したと言ってもいいだろう。
膨らむ指導への疑問
着実に進歩してきたであろうコーチたちの指導技術。しかしそのことに関して、僕の疑問が膨らんでいくのはなぜだろうか。
僕はコーチの指導を批判的に見ることは決してしない。つねづね新しい学びのために、コーチたちの指導を見ることができる場所へ足を運ぶことにしている。
だからこそ感じていることがある。それはどのコーチの指導も、同じように見えはじめたということだ。
以前のように、惹きつけられるような指導に出会えることは少なくなった。そればかりでなく、個性的なコーチの姿に出会う機会も残念ながら激減している。
指導の違いが見つからない
研究熱心なコーチは、今も変わらずにたくさんいる。さまざまな専門用語を、現場で自在に扱うことができ、見た目もシュッとしているコーチも確かに増えた。
外からコーチの指導を見るかぎりでは、無駄がなくその立ち振る舞いも立派に見えるのは事実である。
とはいうものの、そこで見られる指導の手法や言葉は、どこかで聞いたことであるものが多い。それだけでなく、じっさい僕が学んできたものにも酷似している。
それだけに今の時代において、コーチたちの指導に違いを見つけることは困難なのだ。
得られる結果は同じ
指導の手法や言葉が似ているのならば、そこから得られる結果は一体どんなものなのか。
結論を言うと、みんな同じだ。
ここでいう結果とは、指導を受けている選手の姿や成長のことと理解してもらいたい。
指導にあたるコーチたちの手法が似ているので、選手たちの反応や行動も似ている。このことは説明するまでもないだろう。そしてもうひとつ、選手たちが使う言葉はというと、やはり似ていると言わざるをえない。いずれの選手も、コーチがくりかえし使う言葉を、選手も同じように使っている。かといって、選手たちがその言葉を理解しているかは不明のままだ。
このことについて、たとえばの話をしておきたい。
「隣りあわせの場所で指導にあたる二人のコーチがいるとする。仮にその二人のコーチが、選手にバレないように、あるタイミングで入れ替わったとしても、選手たちはそのまま違和感なく練習を続けられるだろう」
実際にはあり得ないことだが、言いたいことは分かっていただけると思う。それほどコーチたちの手法や言葉は似ていると言える。だから結果的に選手たちの行動や言葉も似るのは、至極あたりまえのことではないだろうか。
学んだ指導を上書きする
コーチたちにもっと自分の指導に意識を向けてほしいと思う。いわゆる誰のものでもない、自分にしかできない、独自性がある指導を目指してもいいのではないだろうか。つまり指導で使う言葉や、ものの見かたはもっと自分らしくていいということだ。学んだ専門用語でガチガチに固まった指導ではなく、自分の感情にあらわにしながらも、選手を惹きつける指導ができるコーチは、少なくとも僕には魅力的にうつる。
学んだ指導技術は大切にしてほしい。繰り返しになるが、学んだ指導技術を独自の指導技術として、魅力あるものに育ててもらいたい。そのためには、もっと自分で学び、だれかの指導を見てヒントを拾い、そして学んだ指導技術に自分で上書きしていくしかない。それには時間がかかるかもしれないし、誰かの批判を受けることもある。だけどそれができてこそ、そのコーチ独自の指導として周囲に認められ、より多くの人の注目を集めることにも繋がっていくだろう。